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2024年10月15日
【PEOPLE】“人の「愛する」という気持ちは、性別を超えて存在するもの” 勝崎慈洋 / 24PILLARS [複合施設]
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MARKETや街で今気になる人に話を聞く「PEOPLE」第7回は、公開空地を活用するイベント「THE PLACE OF WALKABLE CITY NAGOYA」にご協力いただく「24PILLARS」を運営する会社「DaLa木工(ダラモッコ)」代表、勝崎慈洋さんにお話をうかがいました。勝崎さんは自己紹介をする際に必ず「とよぴーと呼んでください」とおっしゃるので、以下、とよぴーと記載させていただきます。



― はじめにご出身とこれまでについて教えてください。
とよぴー:生まれは緑区の鳴海ですが父の転勤で岐阜県に引っ越して、幼少期は多治見で過ごしました。幼い頃の私は小さくて細くて大人しくて。朝礼で倒れるような、いわゆる虚弱タイプでしたね。高校まで岐阜県で過ごしたのですが、幼い頃から名古屋に思い入れがあり、大学進学を機に春日井市でひとり暮らしを始めました。

― 名古屋ではなく春日井に住むことになったのですか?
とよぴー:はい。正確にいうと、名古屋だと思っていた場所が春日井だったんです(笑)。でもどうしても名古屋に通いたくて、バイトは名古屋市内で探していました。そんなある日、金山駅構内を歩いていたら、畳2畳分ぐらいの小さなCDショップが目に留まりました。その瞬間に「ここで働きたい!」って思ったんです。もともとCDショップへの憧れもありましたが、何よりそこで働くお姉さんがとってもかっこよくて。思わず「ここで働かせてください」と声をかけてしまいました。



― そこで働くようになったのですか?
とよぴー:そのお姉さんに「この店はもうすぐ裏のビルに移転するけど、そっちでなら働けるよ」と言われて、私はその移転先でアルバイトを始めることになりました。それが私とCD・レコードショップ『GROOVE(グルーヴ)』との出会いです。そのビルというのが金山駅南口のすぐ前にある4階建で建物で、1棟まるっと『GROOVE』としてCDやレコードを販売していました。もともと私自身音楽好きだと自負していたのですが、そこには私よりも遥かに音楽に精通した変態的な人がいっぱいいて、面食らったのもいい思い出です(笑)。この時一緒に働いていた仲間は今でも大切な存在ですね。
ちなみに、最初に私が金山駅構内で声をかけたエキセントリックで素敵なお姉さんは、今は大須で彫り師をしていて、私の身体にもいくつか素敵な絵を入れてもらっています。ここでかっこいい大人たちに囲まれて、私の人生も大きく変わりました。

― 具体的にはどう変わったのでしょうか?
とよぴー:私は大学で電子工学を学んでいてバリバリの理系だったのですが、『GROOVE』での生活が楽しすぎて就職活動はせず、そのまま正社員になりました。そして時が経ち、かつて18歳で入った私も28歳に。その10年で世の中の流れも変わりました。CDやレコードから音楽配信に移行していく中で、私自身、将来に不安を感じるようになったんです。それで「何か手に職をつけなくては!」と思い、木工職人を目指すことにしました。



― 木工職人ですか? 急ですね!
とよぴー:幼い頃に岐阜で行った社会科見学で、木工職人さんたちに会ったことが強く印象に残っていて、手に職といえば木工だなって。住み込みで木工を学べる場所が岐阜にあったことを思い出して、そこへ面接に行きました。「私は木工の職人になるんだ」って!

― そこからとよぴーさんの人生の第2章が始まるのでしょうか!
とよぴー:面接には落ちました! 落ちてしまったらしょうがないですよね。でも生きていくためには働かなければならない。住み込み仕事は諦めて、コンビニで転職雑誌を読み漁っていたら「一緒に木工作業をしませんか」という文字を見つけて・・・。私の転職先が決定しました。パチンコ台を作る木工所です。

― なんと! 転職はいかがでしたか?
とよぴー:数ヶ月前まで『GROOVE』で遊ぶように仕事をしていた人間が、突然おじさんたちに囲まれて木の粉まみれになりながら仕事をするんです。無謀も無謀です(笑)。当時の私の髪型はアフロのようなドレッドヘアで、木の粉が髪の毛に付くと絡まって洗っても全然取れなくて大変でした。なにより、職人さんの仕事って繊細さが求められるうえに危険と常に隣り合わせなんです。木を加工する機械も、気をつけないと指なんて簡単に吹っ飛んでしまう。色んな感情が重なって、働き始めて1ヶ月くらいがたった時にとうとう「もう辞めます」と根をあげました。
すると社長から「せっかく入ったんだから営業をやらない?」と声をかけてもらったんです。それで、その木工会社で営業職として働くことになりました。こうして自分の木工職人の夢は途中で挫折したこともあり、職人さんたちのことは本当に尊敬しています。この気持ちは、今でも私の仕事をする上での大切な軸となっています。





― ひとつひとつが今のとよぴーさんを作る基盤になっているのですね。
とよぴー:ただ、時代の流れでパチンコ台を作る仕事も徐々に減っていき、会社の経営は厳しくなっていました。ラッキーなことに、私たちの会社はパチンコ関連の仕事がない時は、オリジナル家具を製作していました。幸いその家具の売り上げは好調だったんです。そこでオリジナル家具を主軸にして、会社を引き継げないかという話が持ち上がりました。で、誰が会社を引き継ぐんだと。その時私は一番下っ端だったのですが、他の方々はみんな家のローンを抱えていたりして、会社を引き継ぐのはあまりに重荷だということで。最終的に消去法で私が引き継ぐことになったんです(笑)。なので会社は一番下っ端の私を筆頭に、上司3名と一緒に立て直していくことになりました。私が35歳の時の話です。とはいえ1年半後にはその工場は跡形もなく消えるんですけどね。

― え!? どういうことでしょうか・・・。
とよぴー:忘れもしない、会社を立て直し始めて1年半ほど経った12月25日クリスマスのお昼のことです。ここまで本当にみんなで頑張ってきました。だからその日は「せっかくクリスマスだし、ちょっといいものを食べよう」って、会社のみんなでお昼ご飯にトンカツを食べに行ったんです。その帰り道、会社の方で黒煙が上がっているのが見えました。こんな時期に野焼き?って。でもそれは野焼きではなく、火事でした。私たちの会社が燃えていたんです。「膝から崩れ落ちる」の言葉の意味を身をもって感じました。通帳と印鑑とPCだけなんとか運び出したものの、会社は全焼。消火活動が全て終わった頃には夜になっていました。みんなで頑張ってきた何もかもが焼け落ちました。それでも次の日は朝8時に集合しようと約束して帰路についたんです。

― 会社を建て直し始めて1年半ですか・・・。
とよぴー:当時私は結婚していて、2歳と5歳の子どもがいました。会社が火事で全焼しようが、家に帰ると私は父親です。妻と子どもと一緒に味のしないクリスマスケーキを食べました。そのあとお風呂に入って寝ようと思ったのですが、体は疲れているはずなのに炎が脳裏にこびりついて全く寝られないんです。寝られないのなら仕方がない。新しい工場でも探してみるかと、不動産のサイトを漁っていました。そこで見つけたんです、素敵な空き物件を。小さい希望の光を見つけた気がしました。次の日朝一番の業務は、みんなで新しい物件を見に行くことにしました。その時に見つけた場所で、今に続く再スタートを切ることになります。



― 波乱の数年間だったのですね。会社を立ち上げ直し、それが1年半で全て焼け落ちる。そしてそこからの再建。
とよぴー:火事で会社が燃えてしまいましたが、同時に私の「羞恥心」も一緒に燃えて消えたみたいで。ここで、少し私自身の話をしてもいいでしょうか。

― ぜひお願いします。
とよぴー:私は男性として生まれました。でも物心ついた時から好きになるのは男の人でした。それでも自分がトランスジェンダーだとバレたら全てが終わると思い、それまで隠して生きてきました。ワイルドな雰囲気を作ったり、髪の毛は長くても髭は生やしたりして。いつかバレるかもしれないという不安は常に感じていました。でも火事で全てが燃えた時に、羞恥心も一緒に消えたみたいで「もう何も隠す必要はない」と思えたんです。既に私には子どもが2人いるので、もう「身体的な男性としての役割は必要ないんじゃないか」とも思って。それで性転換手術を受けたいと妻に相談しました。火事の半年後のことでした。
今となっては妻に「騙された」と言われたりもしますが、彼女も当時は本当に辛かったと思います。対外的には普通の家族としてやってきていたので。なので妻には本当に感謝しています。



― 会社として火事は大きな出来事ですが、とよぴーさんの人生のターニングポイントにもなったのですね。
とよぴー:そうですね。私の母は4姉妹の中で育ったこともあってか、男の子である私を育てるのに少し苦労した部分もあったようです。そのせいかはわかりませんが、幼少期は姉のお下がりの服を着たり髪を長くしたりと、姉と同じように育てられました。でもなぜかスカートだけは履かせてもらえませんでした。それが不思議で仕方なくて。
小学4年生のときに姉の履いているスカートが羨ましくて、自分の気持ちを両親に伝えてみたんです。するとそれ以降、今まであまり家にいなかった父が家にいることが増えました。いつか薬師丸ひろ子になれると思っていた私の髪型は坊主になり、父からは「男はガニ股で歩くものだ」と教えられました。そんな親の教育もあって、中学1年生になる頃には男らしく振る舞えるようになっていました。もう周りで私に「男らしくしろ」と怒る人はいませんでしたね。



そんなある夏休みのお昼に家でテレビを見ていたら、画面の中で綺麗な女性の格好をした男性が司会者と一緒に踊っていました。あれは「笑っていいとも!」だったかな。そのシーンに私にとても大きな衝撃を受けました。「東京に行けば私もニューハーフになれるんだ」。その想いだけでその夜、貯金箱を抱えて東京を目指して家を飛び出しました。でも、田舎から来た中学生の私には名古屋駅の複雑な電車の乗り換えなんてわかりません。新幹線の乗り方がわからずフラフラしているところを警察に補導され、夢半ばで家に帰って来ました。もしあの時スムーズに電車に乗れていたら、東京に行けていたら、「家出のニューハーフ」として一世を風靡していたかもしれませんね(笑)。



性転換手術って、施術をする年齢が若ければ若いほど、より女性らしく男性らしくなるそうです。私は手術をするタイミングが遅かったので、錦で働く綺麗なニューハーフの人たちに会うと、綺麗でいいな、妬ましいなって思うこともあります(笑)。だけど、妻と結婚して家庭を持って子どもができた時、これが自分の人生で良かったって思えたんです。幼少期に父から「男はこう歩くものだ!」と教えられたガニ股歩きも、男としての生き方も、あの時期があったから今があるのかなって。正解はわからないけれど、でもとても幸せなことだなと。自分のこれまでを認めることができた気がしました。
でも実はいまだに実家に帰る時には男性らしくしていたりします。けれどそろそろ両親にも伝えられるといいなと思っていて。こうして自分のことをお話しているのも、記事を読んで遠回しに知ってもらえたらいいなという思いもあります。

― 今もご家族で暮らされているのですか?
とよぴー:もちろんです。今も妻と子どもたちと一緒に暮らしていますし、ずっと変わらず愛しています。子どもとはジェンダーの話もします。最近、愛するってどういうことか、自分なりの答えがわかった気がするんです。私は、妻と子どもたちの命が助かるのであれば、喜んで自分の命を差し出せる。この気持ちが愛なのかなって。いくらかっこよくてタイプの人がいたとしても、その人のために命は投げ出せませんからね(笑)。人の「愛する」という気持ちは、性別を超えて存在するものだと私は思います。



― とよぴーさんの人生やこれまでの経験が、今の大切な生活に繋がっているのですね。日常や仕事で大切にしていることはありますか?
とよぴー:ん〜、そうですね・・・。「初動の勢い」でしょうか。基本的に私はコツコツ計画を立てるタイプではないのですが、その分「やりたい!」という気持ちをベースに、初動の速さは大切にしています。人って何かを始めようとする時に、ついネガティブなイメージを同時に持つことがあると思うのですが、できるだけそれは考えないようにしています。この場所を作る時も、そんな初動の勢いは大切にしていました。
あと、疲れた時や落ち込んだ時はアンパンマンのうたを歌うようにしています。『もし自信をなくして くじけそうになったら いいことだけ いいことだけ 思い出せ』って! いい歌詞ですよね!







― 初動の勢いを大切にされていたのですね! 24PILLARSができる時のことも詳しくお伺いしたいです。
とよぴー:新しい工場での仕事が落ち着いてきた頃、会社の忘年会で「職人が一般の方に向けてワークショップできる場所を作りたい」という話が出たんです。それなら場所は、かつて『GROOVE』があった金山がいいなって。それで車でこの高架下を通っているときに今の物件を見つけました。すぐにJRに問い合わせたところ「場所の価値を高めたいので、人が集まるような所にしたい。工場や倉庫としての利用はNG」と言われて。そこで、自分たちがイメージしていた職人が輝けるファクトリースペースに併設する形で、ショールームとしても機能するカフェとギャラリーを始めることにしたんです。
ちなみに私が『GROOVE』時代に一緒に働いていた、音楽やカルチャーの知識が変態的にすごい磯村というスタッフが数年前から「DaLa木工」に加わっているのですが、24PILLARSが今のような複合的な形になったのも磯村の感性が生きていたりします。本当に全てが今に繋がっているんですよね。





― 24PILLARSも、これまでのとよぴーさんの人生や繋がりがあったからこそできた、思いの詰まった場所なのですね。ここを作る際に大切にしていたことはありますか?
とよぴー:全て手作業であるということでしょうか。私の会社で制作している家具は、基本的に全てオーダーメイドです。「こういうものが欲しい」というお客さまのイメージに寄り添ったものを、ひとつずつ職人の手で大切に作っています。この場所や自分たちの活動を通して、職人たちの魅力やかっこよさをもっと社会に伝えていくことができるといいなと思っています。
そうした思想は料理やワイン、ビールなどのセレクトにも繋がっています。例えばドリンク類は、ナチュラルワインやクラフトビールなど、人の手によって丁寧に作られたものを選ぶようにしていますし、料理も旬の食材を美味しく味わえるメニューを開発しています。







― お話を聞いて、もっと違った角度からも24PILLARSを楽しめそうです。そういえば最初に、とよぴーさんは名古屋に思い入れがあるとおっしゃっていましたが、その理由は何でしょうか?
とよぴー:実は子どもの頃に家族でよく名古屋に遊びに来ていたんです。父が中部電力で働いていたので、『でんきの科学館』にはよく連れて行ってもらいました。岐阜から名古屋への旅は、私にとってちょっと特別な感じがしていて、すごく好きだったんです。だからこそ「THE PLACE OF WALKABLE CITY NAGOYA」の会場が『でんきの科学館』だと聞いて、とても楽しみです!

― その話を聞くと私たちも嬉しいです! さて、とよぴーさんのこれからの夢や、やりたいことはありますか?
とよぴー:あまり計画を立てるタイプではないのですが、ひとつだけ。かつて私が夢中になった『GROOVE』のあった街、ここ金山をもっと盛り上げていけたらいいなと思います。昔このあたりには老舗のクラブ「RADIX」もあって、今より活気がある時期もありました。その時のように音楽やお酒を楽しめたり、ふらっと美味しいものを食べたりする場所がもっと増えたら嬉しいですね。



― 素敵です! 最後に、とよぴーさんの名古屋でよく行く場所を教えてください。
とよぴー:錦にある『水中花』というスナックのようなお店です。ここには店主のジョージさんに会いにいきます。ジョージさんは、昔テレビで司会をされていたり雑誌でご自身のページを持っていたりと、当時から私の憧れの人です。今は、そんなジョージさんとお店でお話をしたり、お酒を飲んだりできるのがとても嬉しいです。ジョージさんはとにかくファッショニスタで、数えきれないほどの衣装を持っていらっしゃいます。いつかジョージさんのクローゼットを展示する企画展「ジョージクローゼット」を開催してみたいな。あ、これも私のいつかやりたいことですね(笑)



24PILLARS
愛知県名古屋市中区金山3-4-16
◎Instagram
月火11-21/木金11-23/土日9-23/水曜定休日

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Text:Hiyori Sakakibara(THE SOCIAL)
Photo:Eri Yamamoto(THE SOCIAL)

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